四季という概念は、どこから日本に入ってきたかというと中国ですよね。
1年を24に分ける二十四節気という季節を表す概念があります。1年をまず四季に分けて、それからそれぞれの季節を6つに分けるというものです。
立春とか、啓蟄とか、夏至とか大寒とかそういうやつです。「暦の上では」という前置きで、今もテレビ番組などで使われていますよね。
そんでもってこれはウィキペディア情報ではあるのですが、二十四節気は中国の戦国時代(紀元前4世紀)ころにできた概念というか方法なのだそうですよ。紀元前4世紀といえば、日本ではまだ弥生時代。その頃にできた概念を借りてきて、えらそうに「日本には四季がある」とか言っているわけです。偉そうかどうかは言った人のパーソナリティによりますけれど。
まだ文字も国家もなかったころに外国で作られた先進的な概念をですね、「日本固有のものだ」みたいな感じで言い放ってしまうところに危うさを感じます。教育がなっていない。学校でちゃんと二十四節気について教えているのか。「暦の上では」といっている暦は、2500年前に今で言う河北省あたりに住んでいた中国人が「1年を分けたらこういうふうになるんじゃない?」って考えたやつなんですよ。そこをちゃんと理解してほしい。
「日本のいいところは」と尋ねられて、「四季がある」って答える人は、低レベルな学校教育の被害者です。ざっくり教えすぎやねん。ほかにはなくて、日本にはあるっていう捉えられ方をしたらだめでしょう。だいたい英語だって季節の分け方は、スプリング、サマー、オータム、ウインターで四季じゃないですか。季節は4つに分かれる、っていう考え方は洋の東西を問わず共通部分がある、ってことなんですよ。
そういう人って、中国の二十四節気だったり英語圏の四季の捉え方について問われたら、なんて答えるんですかね。だいたい想像できますけどね。「四季は、古代から中国にもあるし、英語圏でも伝統的に存在したものですが、日本と何が違うんですか?」「日本は桜がきれい」。
昔から日本列島の春を桜が彩ってきたのは事実ですが、現在のように日本列島のあちこちに桜が植樹されたのは、江戸時代後期以降のソメイヨシノブームの結果ですし、四季を彩る花や、もっと言ってしまえば人が愛でる対象となるような自然現象は世界各国それぞれに異なる形で存在するはずです。国によってそれぞれ異なる季節があって、それぞれに愛でる自然がある。素晴らしい考え方ですね。同意できますか? でも「日本には四季がある」と言ってしまうと、この素晴らしい考え方を、ある意味否定することになってしまうんですよ。
そんなもったいないこと、したくないですよね。私は世界の国や地域それぞれに、愛でる対象が異なっていて、人々が美しいとかイケてるとかエモいって思うものがたくさんあるほうがいいと思います。世界はそうあってほしい。だから、私は日本のいいところを聞かれても「四季がある」とは答えません。ただ今までそんなことを聞かれたことはありません。これからも誰も聞いてくれないかもしれません。もしかしたら、そっちのほうが問題かもしれません。そんな気がしてきた。